2018年1月20日土曜日

海民とアイヌ

縄文の思想 3

この記事は「縄文の思想」(瀬川拓郎 2017 講談社現代新書)の「第2章 海民とアイヌ-日本列島の縄文ネットワーク」の感想メモです。

1 「第2章 海民とアイヌ-日本列島の縄文ネットワーク」の記述で興味を覚えた事項
弥生時代
・北海道は「北の生態系」のなかで「旧石器的生業体系」を持続し、「南の生態系」の人々がもたらす鉄器、コメ、南島産貝輪などを入手するため、陸獣や海獣の毛皮が大きな意味を持った。
・続縄文時代(弥生時代と古墳時代の並行期)になると道南から道東の太平洋沿岸ではヒラメ漁やメカジキ漁に特化して、食料確保という点で理解を超える現象が生まれた。その理由は「威信」という社会的な問題が関わっていた。
・漁具の類似性から縄文時代晩期の三陸-仙台湾の大型魚漁集団が北上あるいは移住して道南続縄文人と交流し、高度な漁撈文化をもたらしたと考えられる。
・礼文島には弥生時代前期末に九州北部の海民がアワビ漁のために来ていることが遺物から判明し、毎年往復し夏の間素潜りによるアワビ漁をしていたと考えられる。
古墳時代
・礼文島から鹿骨製刀剣装具が出土し、古墳時代中期ごろオホーツク人の社会に本州海民がでむき使ったものと考えられる。

鹿骨製刀剣装具の出土遺跡 「縄文の思想」(瀬川拓郎 2017 講談社現代新書)から引用

・利尻島や奥尻島ではオホーツク文化の時代に古墳文化の土師器が出土し、胎土が地元のものであることから本州海民が利尻島や奥尻島で作成して使用したと考えられる。
・北海道最北端まで往来していた海民の動きに刺激されてオホーツク人の本州方面南下の動きがあった。
・奥尻島では土製模造鏡が出土していることから、本州の人々が奥尻島へ渡海し祭祀を行っていたと考えられる。

土製模造鏡の出土遺跡 「縄文の思想」(瀬川拓郎 2017 講談社現代新書)から引用

・余市町フゴッペ洞窟の絵画はこれまで大陸系と考えられてきているが、装飾古墳の絵画と通じるものがあり、海民のものであると見直すことが妥当である。

余市町フゴッペ洞窟と装飾古墳の絵画の対比 「縄文の思想」(瀬川拓郎 2017 講談社現代新書)から引用

装飾古墳・壁画古墳の分布 「縄文の思想」(瀬川拓郎 2017 講談社現代新書)から引用

・洞窟絵画や埋めずに火葬した人骨など北海道に類例のない遺跡、鹿骨製刀剣装飾具、石製模造品の刀子、朱塗りの土師器、土製模造品の鏡、馬具、短冊状鉄斧といった特異な遺物がひとつの例外もなく奥尻島、利尻島、礼文島、余市周辺など島嶼や海浜部で発見されていることは続縄文人と異なる文化に属する本州海民がこれらの地域に多く渡海し、続縄文人やオホーツク人と深く交流していたことを示している。

2 感想
本州海民と続縄文人・オホーツク人の交流が考古学データにより実証的に説明されているのでとてもわかりやすく、理解を深めることができました。
著者は北海道続縄文人と本州海民の交流に焦点を当てていますが、当方は上記3枚の地図「鹿骨製刀剣装具の出土遺跡」、「土製模造鏡の出土遺跡」、「装飾古墳・壁画古墳の分布」が結局は海民の分布図であり、房総がその拠点の一つであることに興味が集中していきます。
房総の海民が弥生時代、古墳時代に果たした役割の記述はほとんど見かけません。
その方面の学習も深めたいと思います。

2018年1月18日木曜日

海民と縄文

縄文の思想 2

この記事は「縄文の思想」(瀬川拓郎 2017 講談社現代新書)の「第1章 海民と縄文-弥生化のなかの縄文」の感想メモです。

1 「第1章 海民と縄文-弥生化のなかの縄文」で特に気になった事項
「第1章 海民と縄文-弥生化のなかの縄文」では現在まで残る縄文習俗として抜歯やイレズミあるいはアイヌ語地名などについて紹介しています。
また、弥生時代になると高度な縄文伝統漁猟文化を導入しながら専業的な海洋適応の暮らしを構築していった海辺の人々つまり海民が誕生して列島各地の遠隔地交流も担ったことが述べられています。
どの記述も興味深いものばかりですが、特に次の2点について注目しました。
ア 九州北部で弥生文化が成立した弥生時代早期から前期に、東北地方の縄文人が九州へ進出していった事実。(九州北部各地からの亀ヶ岡系土器出土で確認できる。)
イ 東北北部方言と出雲方言は「ズーズー弁」として強い関係を示すが、その理由として海上交通による移住が考えられるという説の紹介。

基礎語彙からみた各地方言の関係
「縄文の思想」(瀬川拓郎 2017 講談社現代新書)から引用

ア、イともに弥生時代の初め頃東北縄文人が列島の西に向かって進出したという情報です。私はこのような情報に初めて接し驚きました。
これまで列島の縄文人は弥生時代になると西から徐々に追い詰められ消滅していくパターンだけしか頭に描いてきていません。

2 私の問題意識との関連性
例えば私の次の2つの既存問題意識(興味)の検討方向がこの読書により根本的に変わりそうです。

2-1 地名メナ

メナの分布
ブログ「花見川流域を歩く」2016.06.02記事「千葉県のアイヌ語地名「メナ」

千葉県におけるメナの分布
ブログ「花見川流域を歩く」2016.06.02記事「千葉県のアイヌ語地名「メナ」

千葉県におけるアイヌ語地名メナについて、東北・北海道の分布から孤絶していて、その理由をこの場所だけ縄文時代縄文人集落が奇跡的に残存したと予想していました。
しかし、今後は弥生時代に東北・北海道から縄文人が千葉県にやってきたという状況を検討する必要に迫られます。

2-2 海人(あま)の活動

海人(あま)の活動領域(想像)
ブログ「花見川流域を歩く」2016.05.22記事「古代地名「イラ」の追考

海人(あま)の活動は全て西から東に向かう趨勢を大前提に思考してきました。しかし、海人(あま)が東北・北海道からやってきた可能性も検討する必要があることを認識しました。
倭人の入植活動が西から東への方向は間違いないですが、海人(あま)の出自が東北・北海道である可能性も検討する必要があります。

第1章で大きな刺激を受けました。

2018年1月16日火曜日

縄文の思想 瀬川拓郎 2017 序章縄文はなぜ・どのように生き残ったか

縄文の思想 1

1 はじめに
この図書は先月書店の新刊書棚で偶然見つけて購入しました。

縄文の思想 瀬川拓郎 2017 講談社現代新書

著者の図書はこれまで何冊か読んでいて、自分の初耳となる最新情報を獲得できていて、この最新刊図書も以前読んだ図書と同様にとても興味深い目次となっていて期待がふくらみます。

縄文の思想(瀬川拓郎 2017 講談社現代新書)主要目次
はじめに
序章 縄文はなぜ・どのように生き残ったか
第一章 海民と縄文-弥生化のなかの縄文
第二章 海民とアイヌ-日本列島の縄文ネットワーク
第三章 神話と伝説-残存する縄文の世界観
第四章 縄文の思想-農耕民化・商品経済・国家のなかの縄文
おわりに
引用文献

2 「序章 縄文はなぜ・どのように生き残ったか」
序章ではこの図書のあらましと構成をまとめていますので、その要点を抜粋しておきます。

●あらまし
・紀元前10世紀後半に朝鮮半島から水稲耕作の文化が九州北部に伝わった。この弥生文化は西から東へ拡大して北海道と南島を除く日本列島で受容された。
・各地の縄文人が弥生文化を受容した。弥生時代中期(紀元前4世紀~紀元前後)までに縄文文化の多くは姿を消した。
・しかし北海道と南島・各地の海辺の人々は弥生農耕文化を積極的には受容しなかった。
・弥生時代に縄文伝統の漁猟を深化し特化していった海辺の人々を「海民(かいみん)」とよぶことにする。
・海民は玉・塩の生産、南島産貝製品流通など、あるいは各地の狩猟や古墳時代以降のウシ・ウマの飼育などの生業にも従事し、生業のマルチカルチャー性が特質であった。
・弥生時代の北海道、南島、各地の海辺の人々は狩猟漁撈や手工業生産への特化を通じて農耕民と交易し、かれらとの間で補完的な分業体制を構築した。
・縄文的な生業の継承はその暮らしを精神的に支える縄文の思想の継承を不可欠とし、イレズミや抜歯習俗や縄文の世界観・他界観とどめた。

●図書の構成
第一章 海民と縄文-弥生化のなかの縄文
・弥生時代を迎え日本列島の海辺の人々が縄文性をとどめる専業的な海民となったことを述べる。

第二章 海民とアイヌ-日本列島の縄文ネットワーク
・弥生~古墳時代の海民と北海道アイヌの祖先集団との交流、つまり農耕民とは異なる世界で展開した日本列島縄文ネットワークの実態をみる。

第三章 神話と伝説-残存する縄文の世界観
・縄文性をとどめたがいに交流していた本州の海民、アイヌ、南島の人々とのあいだに、共通する神話・伝説があることを指摘する。

第四章 縄文の思想-農耕民化・商品経済・国家のなかの縄文
・縄文の世界観・他界観を共有していた周縁の人々に注目し、かれらの共通する生き方のなかに、その生を律した縄文の思想を読み解く。

3 感想
弥生時代から縄文時代を眺めることによって、倭人の歴史文化と縄文文化を連続してとらえることができますから、大変魅力的な図書です。
序章にでてくる具体事例は自分の初耳であるものも多く、これからの読書に期待が膨らみます。
柳田國男や折口信夫の世界と発掘科学である縄文考古学とが連結していくのですから興味津々です。
千葉県古代海洋民の海人(アマ)や千葉県南部に分布する海岸洞穴遺跡群などの情報(知識)も弥生時代縄文ネットワークの視点から捉えると宝の山になることが直観できます。

2018年1月12日金曜日

縄文学習初心者の疑問

縄文時代史 7

このブログでは縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)の読書メモを掲載しています。この記事は2018.01.10記事「遺跡数急減の理由は食糧資源の枯渇か?」のつづきです。

● 縄文時代遺跡数急減の理由
縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)では縄文時代遺跡数急減の理由を人口増加による食料資源の枯渇と気温低下の影響(自然再生産の減少、漁場の劣悪化等)をあげています。
この2つの要因による説明にガテンがいかないので図解でメモしておきます。

関東から中部にかけてのメモ
1 著者はレベルAになった時人口増加が自然再生産力を上回り、食料資源が枯渇して、いわば社会が破たんしたというような説明をしています。

本当にそうであるか学習初心者として疑問です。
遺跡数が急減したから、そこが食糧資源が枯渇する閾値であるという思考をしていると推察できます。
遺跡数急減が食糧資源枯渇以外の理由によるかもしれないという検討はありません。
食糧資源が枯渇する閾値が判っていて、それが遺跡数ピークと略一致するからという実証的論理は存在しません。
自然の生産力(例 ドングリが生産される量)とそれが養える人口との関係が判っていて議論が行われているとも思えません。
著者が何回も言及する八ヶ岳西南麓でのピーク時の集落間距離が1kmになり、通常の2kmより短くなり、「食料資源の枯渇が深刻な問題になってきていたはず」という記述はあくまでも単なる想像です。
現実に集落間距離が1kmでも集落が存在したのですから、それでも食糧が確保されたという逆の証明に使える材料にもなります。
縄文中期の遺跡数ピーク時に本当に食料資源枯渇が問題になったのか実証的に知るために学習を深めたいと思います。

2 著者はレベルAからB、さらにCへと遺跡数が急減する理由を人口増加による食糧資源枯渇と気温低下の影響によるとしています。

本当にそうであるか学習初心者として大いに疑問です。
まず、食料資源が枯渇したと著者は言いますが、縄文人が資源(森林や生物)を全部採り尽くしてしまって、資源が枯渇したなら遺跡数急減は理解できます。
しかし、そのような破滅的資源利用を縄文人がおこなった様子はありません。逆に栗林の造成とか漆林の造成など縄文人は資源の枯渇が無いように工夫しています。
天候不順などで食料不足になる危機はあったに違いありませんが、そのような危機で人口が減少しても、自然資源は復活するので再び人口は増えると思います。
レベルA→B→Cと縄文社会が完全崩壊するような原因を食料資源の枯渇に求めるのは無理があると考えます。
気温の低下や食糧の不足は背景にあるかもしれませんが、遺跡数急減の主な説明要因は縄文社会内部にあるように考えます。

関西のメモ
関西では中期から晩期にかけて遺跡数が急減するどころか増加しています。
気温の低下による環境劣悪化の影響はありません。
気温の低下による環境変化はあっても、それが食糧不足を招くとは限らない実例です。

東北のメモ
東北では中期から晩期にかけて遺跡数が漸減しますが、急減しません。
気温の低下があって環境の変化があったとしても、それを社会が受け止めて社会が存続する実例です。

関西や東北の実例から、関東から中部における遺跡数急減の「食料枯渇・気温低下主因説」を納得できません。

関東から中部における遺跡数急減の理由は人口急増による諸問題を解決できない社会機構の問題(例 分業の未熟さ)などにもとめるべきであり、資源はトータルでは不足していなかったと想像します。気候変動もそれだけで社会を崩壊させるようなことはなかったと想像します。

2018年1月10日水曜日

遺跡数急減の理由は食糧資源の枯渇か?

縄文時代史 6

このブログでは縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)の読書メモを掲載しています。この記事は縄文時代遺跡数変化の解釈に関する疑問をメモします。

1 縄文時代遺跡数変化と「縄文時代史」の説明

縄文時代の時期別・地域別の遺跡数 縄文文化の広がり 縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)から引用
著者は長野県の例をあげて、中期に人口が爆発的に増えて食料資源の枯渇が生まれたとしています。その理由として八ヶ岳西南麓では人口爆発期には集落の間の距離が生活圏を維持することが困難と考えられる1kmまで縮まったことをあげています。
また気温の低下が晩期になるとピークに達して現在よりセ氏2度前後低下し、海面も現在より低下し、自然の再生産にも大きな影響を与えたとしています。
関東内陸部から中部地方にかけては人口増による食料資源の枯渇に環境の悪化が追い打ちをかけたことにより遺跡数が激減したと説明しています。
なお千葉県は海洋資源を活用できたので後期の集落激減は緩和されたが、海面低下で漁場が奪われ結局遺跡が激減し、狩猟活動への依存度を高めたと説明しています。

東北地方については晩期になっても安定した遺跡数を保ち、この地域が亀ヶ岡文化圏であり、縄文文化といっても一筋縄のものではないと述べています。

近畿地方は早期から晩期まで遺跡数に大きな増減がなく、この地域が弥生文化を象徴する土器である遠賀川式土器の分布範囲とほぼ重なり、…縄文文化といっても一筋縄のものではないと述べています。

2 疑問
上記説明に対する素朴な疑問をメモしておきます。
2-1 食糧資源は枯渇したか?
・関東から中部にかけて、縄文時代中期に人口が爆発的に増え、その人口をまかなえるだけの食料を自然が提供できなかったという現象、つまり食料不足を実証するような情報は存在しないのではないかと疑います。
・言葉の問題…食料資源の不足はあっても「枯渇」という状況は存在しなかったと考えられます。つまり自然が行う増殖を縄文人がストップして(例森林伐採)、食糧資源が「枯渇」してしまうこと、涸れてしまうことは無かったと思います。

2-2 食料不足がなぜ人口急減を招くのか?
・仮に食糧資源が不足してピークの人口が維持できなくなったとしても、それだけの理由では人口急減を説明できません。なぜ資源を持続的に利用できるだけの人口に戻るだけで終わらなかったのでしょうか?

2-3 気温の低下が大きな影響を及ぼしたか?
・縄文時代中期~晩期の気温低下情報はこの図書に掲載されていません。(縄文草創期の詳しい気候変動グラフ掲載と対照的です。)
・仮に気温の低下があったとして、それが社会に大きな影響を本当に与えたのか納得できません。東北や関西では気温低下の影響を深刻には受けていないようです。

参考 グラフ「縄文時代の時期別・地域別の遺跡数」の色塗り

奈良・滋賀・兵庫遺跡数累計
素図は縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)から引用
・気温の低下の影響は観察できません。

長野・東京・千葉遺跡数累計
素図は縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)から引用
・遺跡数変動を人口急増による食料不足と気温の低下の影響で全て説明できないと考えます。
・社会の対応力を有力な説明変数に組み込む必要があると考えます。

秋田・宮城・岩手遺跡数累計
素図は縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)から引用
・寒冷な土地にも関わらず気温の低下の影響は少ないようです。

奈良・滋賀・兵庫・長野・東京・千葉・秋田・宮城・岩手遺跡数累計
素図は縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)から引用







2018年1月9日火曜日

日本列島の縄文時代以降の歴史年表

縄文時代史 5

このブログでは縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)の読書メモを掲載していて、この記事は第5回目で、目次「Ⅴ 縄文から弥生へ」を学習します。

1 日本列島の縄文時代以降の歴史年表

日本列島の縄文時代以降の歴史年表
この図書では上記歴史年表を掲載して、稲作の伝来を画期として本州・九州・四国では稲作を基盤とした弥生時代が始まり、稲作に適する条件のなかった北海道と琉球列島は縄文時代生業を改良してそれぞれ独自の道を歩むことになり「歴史の道の複線化」をたどったことが説明されています。
また、縄文時代に栽培植物は存在していましたが、火山灰土が畑作に不向きであり、獲得経済を超えるような農業は生まれなかったことが説明されています。

2 参考 縄文時代と世界文明
著者が作成した「放射性炭素年代とその較正年代の比較」をつかって縄文時代年表とオリエント・中国文明との年代を対応させてみました。

縄文時代と世界文明
縄文文明は土器発明という点で世界で最も早かったと言われるにもかかわらず、文明発展のスピードはオリエントや中国とくらべて遅い(止まってしまった)状況にあります。
大陸内部での絶えざる交流がある地域と、海でなかば隔絶された日本列島の違いについて今後学習を深めたいと考えます。

2018年1月8日月曜日

縄文時代遺跡数増減

縄文時代史 4

このブログでは縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)の読書メモを掲載していて、この記事は第4回目で、目次「Ⅳ 縄文文化の発展と限界」を学習します。

1 縄文文化の地理的広がり

縄文文化の広がり 縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)から引用
縄文文化が現在の日本国領域に近似していることは大変興味深いこととして感じました。
大陸と離れている日本列島と縄文文化が対応していることを改めて認識しました。

2 貝塚分布

縄文時代の貝塚分布 縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)から引用
千葉県の貝塚数が突出していることを改めて認識しました。

3 縄文時代の時期別遺跡数

縄文時代の時期別・地域別遺跡数 縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)から引用
長野・東京と千葉では中期にピークを迎え、後期になると長野・東京は急減しますが、千葉は減少の程度が緩やかです。その理由として著者は千葉では貝塚に見られるように水産資源を活用していて、陸上の動植物のみに頼る内陸部とくらべ減少を食い止めることができたと説明しています。
減少の理由は気温の低下に伴う食糧資源の枯渇とそれに先立つ人口増加を挙げています。
人口の増加が自然の増殖率を上廻ったためと説明しています。

八ヶ岳西南麓の土器型式別にみた遺跡・集落・住居数 縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)から引用

中期後半にピークを迎え、称名寺期に急減しその後堀之内1式期にすこし回復する様子が表現されています。
このパターンは別の情報とも類似します。

参考 関東地方西南部における竪穴住居跡数の推移 「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

参考 京葉地域における竪穴住居住居跡数と遺跡数の推移 [京葉地域とは船橋、市川、松戸、鎌ヶ谷、千葉、市原市を指す。] 「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

縄文時代後期の気温低下等による資源の枯渇について、一般論としてはそうなのだと思いますが、まだ科学的データとして学習していません。
自分の学習ではその言葉ではなく納得できるデータをはやくみつけてみてみたいと思います。
「資源の枯渇」という言葉だけでは自分をごまかすことになります。

また、資源の枯渇という状況に直面した縄文人がとった対応をつぶさに学習したいと思います。
対応の違いにより中部内陸、千葉、東北の違いが生まれたようにも感じます。
今後の学習が楽しみです。

2018年1月3日水曜日

縄文時代集落の生活領域は半径2㎞内外

縄文時代史 3

このブログでは縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)の読書メモを掲載していて、この記事は第3回目で、目次「Ⅲ 縄文人の社会」を学習します。

1 縄文人集落の生活領域は半径2㎞内外
集落を拠点に生活して、日常生活を営むために必要な物資を保障するためには一定の生活領域が必要であり、その範囲は半径2㎞から3㎞程度であったことが東京湾岸貝塚密集地帯の研究や八ヶ岳西南麓の事例から説明されています。

都川流域の事例
縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)から引用

半径2㎞~3㎞の生活領域とは植物採集活動を独占的に行うことができ主食の確保が可能となる範囲です。狩猟活動や漁労活動はより広域におよびそれぞれ別の仕組み(漁場の入会権など)を利用して生活領域から離れた海や狩場で行っていたと説明されています。

八ヶ岳西南麓の事例
縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)から引用

集落を分割する必要がある場合でもほぼ必ず集落間距離を2㎞以上離していたことが説明されています。

漁場や狩場の入会権の調整は集落よりも上位の社会組織に帰属していて、著者はそれを「村落」と定義しています。
また遠隔地との石器石材の交易などは集落単位ではなく村落が折衝に当たっていたと説明しています。

2 身分階層、戦争のない社会
この図書では、発掘によりわかる葬送習俗から縄文時代には制度としての身分階層はなかったと結論付けています。
また人骨殺傷痕から戦争もなかったとしています。

この記述に関連して、集落内で共同生活を送る異なる集団の間には実態としての優劣(支配・非支配)関係が生業分業と関連してあるような感想を初心者として持っていますのでメモしておきます。
大膳野南貝塚の前期集落で異なる形式土器を使う二つの集団の間にそのような状況が観察できました。また後期集落の精細検討で優位家族集団と劣位家族集団がみつかるのかどうか、これからの学習が楽しみです。