2018年2月17日土曜日

土器を飾りはじめた猪

猪の文化史考古編 2

この記事では「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)の「第1章猪造形を追って 1土器を飾りはじめた猪」の学習をします。

1 土器を飾りはじめた猪
今からおよそ5500年ほど前(最新の研究段階では6000年ほど前)の縄文時代前期後半、諸磯b式土器の時代、深鉢形土器の口縁部に獣面把手といわれる猪がモデルになった土器が関東・中部を中心に福島や静岡・岐阜方面の東日本一帯に広がり、それは諸磯b式土器の広がりでもあった。
猪装飾を詳しく観察すると1類から6類への変遷が考えられる。

猪装飾の変遷 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
猪装飾の量が群馬県安中の遺跡で多いので、そこで最初に土器に猪を付け、それが諸磯b式土器を作る各地のムラに広がった可能性がある。また群馬から離れるに従い造形のリアルさが欠ける。

最初につけられた段階では大変リアルな猪であったことから、その頃は実際に猪を観察しながらその顔面を付けたとも考えられる。諸磯b式の時代、あたかも現在のように猪が人里に多く現れるのと同じ現象がおこったのではないか。

猪は多産系の動物であり、また重要な食糧源の一つでもあることから、食料豊穣の象徴として煮炊きする土器を飾ったと考えられる。

土器型式の時間で1世代か2世代を過ぎる頃、同じ諸磯b式でも後半の時期には猪装飾は写実性を失いその意味は形骸化していった。その背景には自然界における猪増減のサイクルが連動し、縄文のムラにて猪を目にする機会が大幅に少なくなったのではなかろうか。

中期中頃の強烈な痕跡はなく、この前期後半という時代、猪が神として縄文人の生活を導くまでには至らなかった。そして縄文集落から猪造形は陰をひそめた。
「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から要約

2 大膳野南貝塚から出土しイノシシ形獣面把手
現在学習を進めている大膳野南貝塚の前期後葉竪穴住居・包含層・遺構外出土土器にイノシシ形獣面把手が24例含まれています。
その一部を良く観察し、そのうちの1つについてじっくりと紙上観賞してみました。

大膳野南貝塚出土イノシシ形獣面把手
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

大膳野南貝塚出土イノシシ形獣面把手 写真
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

大膳野南貝塚出土イノシシ形獣面把手1
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用
「1は突出した頭部の下に左右の耳と思われる貼付を施し、上面にキザミを加える。その直下には2ヵ所の円形刺突を加えて目の表現とし、円形の貼付に鼻孔の穴2ヵ所と口と考えられる横位の沈線を加える。平面的ではあるが非常に写実的な表現がなされた把手である。」

大膳野南貝塚出土イノシシ形獣面把手1 写真
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

3 感想
諸磯b式土器の時代の猪装飾が猪増減の自然サイクルと関係し、その発祥の地が群馬県安中らしいという説が説得力を持つので興味が深まります。説得力の背景に「野生ウリボウ飼育→山に帰る→飼育場所に戻り出産」事例観察があります。2018.02.12記事「猪の文化史考古編 新津健 2011 雄山閣」参照

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